金木犀の落し物
坂道を 香りと降りぬ 金木犀
さかみちを かおりとおりぬ きんもくせい
九月のある土曜日の午後です。駅からアパートまでの帰り道を幸一郎がのんびりと歩いていると、街道から海岸通りへ抜ける路地の坂のあたりで花の甘いかおりがします。
「あれ、金木犀のにおいだ。」と幸一郎はつぶやきました。
そして少しずれかけていたショルダーバッグを肩に掛けなおして かおりのありかを確かめるように坂道の両側にある青い瓦屋根と赤い瓦屋根の民家の庭先を見回しました。
毎年この時期になるとこの坂道のあたりでよく金木犀のかおりがするのです。
大人の背丈ほどもあって毎年黄金色の花を着けるのです。
しかしいくらその辺りを見回してもそれらしい木はどこにもありません。
「おかしいなぁ。この辺にあったような気がしたけど、てことはこの金木犀のかおりはどこからか風に乗って来たってことになるのかな。」
そんなことを考えながら幸一郎は潮風が吹き上がってくる坂道を下っていきました。
アパートに帰ると幸一郎は紅茶を入れました。
今日は電車で半時間ほどのところにある大きな町で映画を見て来たのです。
それは北欧を舞台にした外国のラブコメディーで幸一郎は浮き浮きした気分で映画館を出て来ることができました。思わずふだんはあまり買わない北欧のおしゃれな紅茶など買ってしまったのもそのせいでしょう。
その映画で優雅に花のかおりのする紅茶を飲んでいる場面があったからです。
「ううん、いいねぇ。」
幸一郎は北欧の花のかおりのする紅茶のカップを持ち上げて言いました。
しかし時が立つにつれてなぜかしら気分が次第に沈んで来るのを
感じました。洗面台で手を洗いながらなにげなくのぞきこんだ鏡で自分の顔を見たときはっとしました。自分がとても悲しい目をしていることに気付いたのです。
そしてなぜなんだろうと思いました。
鏡に向かって無理やり笑顔を作ろうとしてもむだでした。努力すればするほど鏡の中の表情はますます悲しげなものにしかならないのです。
「今日は落ち込むようなことなんて別にないのになぁ。どうしてなんだろう。」と幸一郎はちょっと不思議でした。
でも顔だけではありません。気持ちもはっきりと沈んで暗くなっていました。
昼下がりに映画館を出たときのあの浮き浮きした気分はどこに行っちゃったんだろうと思いました。
そのとき庭に面した網戸を何かがガリガリする音がして幸一郎は外に目をやりました。青い目をした白い猫でした。網戸を開けてやると、
「おお、ミーコか。」と言って幸一郎は床にかがんでこの来客を迎えました。
ミーコは近所ののら猫でしたが、幸一郎にはけっこうなついていてよく顔を出してはえさなどもらったりするのです。
「ミーコ、お腹すいてるみたいじゃないか。ちょっと待ってな。」
幸一郎がそう言いかけたとき
「あら、幸一郎さん、どこからか金木犀のかおりをもらって来ましたね。」とミーコが言いました。
「ああ、そういえば。におうのかい。金木犀が。」と幸一郎は言いました。
「さすがだね。猫っていうのは鼻がいいんだね」
幸一郎は関心したように言いました。そう言いながら自分の声がひどく沈んでいることに幸一郎はぞっとしました。なんだか他人の声を聞いてるみたいだと感じました。
すると猫のミーコも気付いたらしく「幸一郎さん、何かあったの。」と言います。
「ああ、そうなんだ。自分では落ち込む理由なんて特にないはずなのにへんなんだよ。」と
幸一郎は今日一日のできごとを簡単に話しました。
「ふうん、なるほど。」とミーコはうなずきました。
「なにがなるほどなんだい。」と幸一郎がたずねると「幸一郎さんがもらってきたのはどうやら金木犀の甘いかおりばかりじゃなさそうね。」とミーコは言います。
「かおりばかりじゃないって、なんのことだい。」と幸一郎が首を傾げて見せるとミーコはそれには答えずに言いました。
「そのかおりはどこでもらってきたんです。」
「あの、海岸通りへ下りる坂道のところにある金木犀だと思うんだけど。でもおかしいんだなぁ、それが。」
幸一郎はそう言うと花のかおりはするのに金木犀の木がどこにも見当たらなかったことなどを話しました。
「そうなの。それは一度そこに行って見る必要がありそうね。」とミーコは言います。
「そうかなぁ。でも今更もう一度行ってみても。」
「あのね、香りは煙とは違うのよ。火のないところに煙は立たずっていうけれど 香りはその原因が失われても現れたりすることがありますからね。」
「そうなの。」
「そうよ、私なんか御命日になるとお母様のにおいをよくお寺の傍にある豆腐やの前を通りかかったとき何度感じたことか。」と
ミーコは言います。
それで幸一郎は翌日金木犀のかおりがしていたあの海岸道理へ下りる坂道のところに
行ってみました。やはり昨日見たようにそこには金木犀の木はありませんでした。
でもよく見ると青い瓦屋根をした家の庭先に金木犀の切り株のようなものが残っているのを見つけて幸一郎は「アー」と思いました。
するとこれからどこかに出かけるのか空色のジャケットを着た初老の男性が玄関から出て来て幸一郎の姿を認めました。
「何か御用でしたか。」と その人は人懐こい笑顔で幸一郎に言いました。
「すみません。庭のお花を見せていただいていました。」と幸一郎は軽く頭を下げて言いました。
その人は幸一郎の視線をたどったのか金木犀の切り株に気付くと
「ああ、これですか。ざんねんなことをしました。半月ほど前に病気にでもかかったのかみるみる元気がなくなって枯れてしまったんですよ。それでいつまでもそのままにもしておけないのでコノ前私が切ったんです。」と言いました。
「そうでしたか。毎年ここを通るたびによくかおっていましたけどね。」
「はい、ほんとに残念です。これはわたしらが結婚の記念に二十年前に植えたものでしてね。」とその人は言いました。
「はあ、そうでしたか。それはそれは。」と幸一郎は深くうなずいて見せました。
それから幸一郎が礼を言って帰りかけると
「実は私も出るところだったんです。」と言って二人は潮風が吹き上がってくる坂道をいっしょに下って行きました。
肩を並べて二散歩行ったところでその人は坂道を挟んだむかいの赤い瓦屋根の家の方をちらりと見やると
「あそこの家の庭にも木犀の木があったんですよ。知ってましたか。」と言いました。
「いあっ、そうだったんですか。気が付かなかったですよ」と幸一郎は言いました。
そして「じゃあ、昨日のあの甘いかおりはこっちの家の方からしていたんだ。」と思って
「ああ、こっちのお宅にも金木犀があったんですね。」と言うと、その人は首を振って、
「いやいや、そちらのお宅のは金木犀ではなくて銀木犀だったんです。うちより古かったですよ。うちで金木犀を植えたのはあのお宅の銀木犀のかおりのせいだったかもしれません。」と言いました。
「はあ、そうですか。金木犀と銀木犀ですか。いい取り合わせじゃないですか。」
「はあ、そうだったんですがね。」とその人は言いました。
「ところがそこのお宅の銀木犀がこの夏の台風でばっさりと幹からやられてしまって、すっかりだめになっちゃったんです。うちの金木犀が元気がなくなったのはそれから間もなくのことでした。」と その人はその銀木犀があったという家の方をなんとなく気にしながら声を少し落として言いました。
「はあ、そうだったんですか。」と幸一郎もことさら同情するように言うと赤い屋根の家の方を見やりました。
結構古びた平屋の家で別荘か何かのようにも見えました。
とするとどちらの家の木犀も枯れていたということか。だとすると昨日のあの甘いかおりはどこから香っていたんだろうかと幸一郎はますます不思議な気持ちになりました。
アパートに帰ると今日も紅茶を入れました。今はこの暖かな飲み物だけが幸一郎の心を暖めてくれるものでした。
紅茶を一口飲むと幸一郎はふっとため息を付きました。
今日もあいかわらず鏡に映るその顔は悲しげなものでした。
夜が来て幸一郎はあしたの会社のことを考えると苦痛でした。きっとみんな自分の顔を見て何か言うに違いない。課長は
「今日は元気ないみたいだな。」と言うだろうし 親しい同僚からは
「どうしたんだい。そんな大失恋したような顔をしちゃって。」などとからかわれるにちがいないのです。
「あああ、なんだかこのままどこかに行ってしまいたいなあ。」と幸一郎は思いました。
一度閉めたカーテンをめくると青い月が南の空にぽっかりと浮かんでいました。
窓を開けるとびっくりするほど涼しい風が入って来ます。
しばらく外で風に吹かれてみようと幸一郎は思いました。
それからふと考えました。いつものように玄関から出るのではなくてこの窓から出てみたらどうだろうかと。なんだか悪くない思いつきのように感じられました。
幸一郎は玄関から靴を持って来ると窓から乾いた地面の上にすとんと足を落としました。薄闇の中で乾いた砂地の庭が白く浮き上がって見えていました。
なんだか木星か金星かどこか別の惑星にでも降りたような気がします。
そしてなんとなく彼の足はあの坂道へ向いていました。
海岸通りから背中を潮風に押されるようにして坂道をゆっくり上がって行くと左右に闇に沈んだ青い瓦屋根と赤イ瓦屋根の家が見えました。その家のあるじとことばを交わした庭先に金木犀のあった青い瓦屋根の家の方は窓には明りはなく玄関の外灯だけがただひとつきり灯っているだけでしたが、銀木犀の木があったという向かいの赤い瓦屋根の家の方の窓からは白熱光が真昼のようにともっていました。
幸一郎はその家の前で足を止めると白い明りのともった部屋の窓の方をなんとなく見つめていました。
すると坂の下の方から車が上がって来る音がしたかと思うと赤い瓦屋根の家の前に一台のすみれ色をしたハイヤーが止まったではありませんか。
幸一郎はびっくりしてその家の門から離れました。
車の中から品のよさそうな美しい中年の女の人とやはり同じ年代の紳士ぜんとした男の人が下りてきました。玄関の外灯に照らされたその顔からは二人の
親しげな様子が見て取れました。でもお互いに相手を気遣いあう様子はどこか夫婦というよりは恋人のようでした。
男の人が銀色のバッグから鍵を取り出して玄関のとびらを開けているところを見るとこの赤い瓦屋根の家は男性の宅のようです。婦人のさざめくような笑い声が外灯の下にこぼれていました。女の人はひかえめに一礼すると男性の後から玄関に入って行きます。とびらがしまって間もなく部屋の窓に人影が二つ映りました。
幸一郎はただ一人隣家の暗い庭先に残されていました。
「こうしていてもしょうがない。さあ、ぼちぼち帰るかな。」と幸一郎がつぶやいたとき 玄関のとびらが再び相手あの夫人と男の人が出てきたのです。
「おかしいわね。確かにこの近くでしたんですのよ。あのかおりがしたのは。」という婦人の声がしました。
「そういえば私もそんな気がしましたよ。でもまさかと思いましてね。」と男の人が言っています。そして二人は何かを確かめるように少しずつ幸一郎の方に近づいてくるではありませんか。
幸一郎は隣家の門扉とブロック塀の間に背中を押し付けるようにして暗がりの中で身をひそめていましたがこのままでは見つかってしまうにちがいないと思いました。
そのときには何て言ってコノ場をやりすごしたらいいだろうかと考えているとついに婦人の方が幸一郎の姿を見つけました。
「あら、ここにいらっしゃいましたよ。」と婦人が小さく叫びました。
「おお、いましたか。」と言って男の人も幸一郎の方に近付いてきます。
「ああ、まずい。どうしてこんなことになるのかなぁ」と思いながら幸一郎は何も言えずに一瞬目をつぶってしまいました。
すると婦人が幸一郎の手を優しく取って
「まあ、よく来ていただいてほんとうにありがとうございます。さあ、こちらにお入りになって」と言いました。
「やあ、どうもすみませんね。今回はたいへんな御迷惑をおかけしてしまって。」と男の人もほっとしたように言っています。
幸一郎はなんのことだかわからないまま宅のリビングルームのような部屋に通されました。外からは想像できないような広い部屋の続きにはサンルームがあって長く使い込まれた感じの銀色の如雨露がぽつんとテーブルの上に置かれているのが見えました。
革張りのソファに座っていると婦人が紅茶とケーキを持って来てくれました。
金色の縁取りの入った銀木犀の花柄のティーカップと
レアーチーズのケーキの皿を幸一郎の前に置きながら夜の散歩には今頃が一番いい季節でしょうねぇ。」と婦人は言ってほほえみました。
「ええ、そうですね。」と幸一郎は少しほっとしてうなずきました。
花柄のティーカップに入った紅茶はきっと木犀の甘い香りがするのかなと想像しながらカップを口元に持って行きましたがそれは取り立てて なんのかおりというのでもないふつうの紅茶でした。
三人で紅茶を飲みながらひとしきり談笑しました。幸一郎が昨日見てきた映画で 主役の女優がとても優雅に北欧の花とハープのお茶を飲んでいたという話をすると二人はとても興味深そうに聞いていました。
その話が一区切りすると男の人が
「すみません。おはなしの途中ですがよかったらせっかくお持ちしていただいたそのハンカチを返していただけますかと言いました。
「えっ、ハンカチ。」と幸一郎は思いました。だれかからハンカチを借りたことがあったっけと考えましたが何のことだか判りません。
「ええと、ハンカチというとどのハンカチのことでしたっけ。」と
幸一郎がとまどいながら言うと 男の人は幸一郎の白いポロシャツの胸を指差して「そこのポケットに入っているハンカチだと思いますが。」と言いました。
そんなもの持って来たかなと幸一郎は思いました。上着の胸ポケットにハンカチを入れておくなどというしゃれた週間は幸一郎には元々なかったのです。
しかし男の人の言うままに自分のポロシャツの胸ポケットをさわってみると 果たしてハンカチが入っているではありませんか。
あれ、なんで」と幸一郎は思いましたが とにかくハンカチを取り出して広げてみました。
うすい水色のレースのハンカちには金と銀の糸ですっかり花を落として冬枯れした木犀が刺繍してありました。
そしてそのハンカチからは木犀の甘い香りがしていました。まるでその刺繍された木犀の木からにおっているかのようです。
なんでこのハンカチがぼくの胸ポケットなんかにあったんだろうといまだにふに落ちないままそれでも 自分の持ち物ではないことは確かだったので幸一郎はそれを男の人に手渡しました。
「ありがとうございます。私どもの落し物をわざわざ届けていただいて。」と男の人は言って、その刺繍とかおりをうやうやしく確かめてから婦人に手渡しました。
「ああこれです、これです。冬枯れのハンカチです。よかった、よかった。ほんとにどうもありがとう。」と婦人はうれしそうにそのハンカチを胸に抱きました。
「それは確かに冬枯れのハンカチに間違いないんですね。」と男の人も顔をほころばせて言います。
「ええ、間違いありません。これは私たち二人の冬枯れのハンカチです。これで明日にも旅立てますね。」と婦人が男の人に言うと、
「そうですね。いよいよですね。明日なんですね。」と男の人も顔を少し上気させて言います。
「お二人で旅行に行かれるんですか。」楽しみですね。どちらへ」と幸一郎が言うと、
「遠い遠い所にある国まで出かけるんです。春と秋が交互にめぐってくる美しい所へ旅立つんです。私たちもうずっと前から準備して来たんです。」と婦人は若い娘のように目を輝かせて言いました。
「ぼくたち長いこと家を空けることができなくてずっとこの日が来るのを楽しみにしてたんですよ。ほんとはもう少し早く出発できるはずだったんですけど 舞い上がっていたんでしょうか。だいじなものを忘れてきてしまってね。
これがないとあの国には入れナインんですよ。」と男の人は言いました。
「わたしが落としたのよ。きっと。」と婦人は言いました。
「まあ、そんなこと今となればどっちでもいいじゃないか。」と男の人は言うと、
「そうねぇ。ほんとうにね。親切な方に拾っていただいたから。」と婦人は微笑しました。
そのとき玄関の呼び鈴が鳴って
「銀木犀のだんなさま、金木犀の奥方さま。お迎えにあがりました。」という男の声がしました。
その名を聞いて幸一郎ははっとしました。まさかと思いました。
でももしかしたらと一瞬考えましたが やはりそんなことはありえないだろうと思いました。
「あら、もう来ちゃったのね。少し早かったかしらね。」と婦人が言うと、
「いや、ちょうどよかったんじゃないかな。」と男の人が言いました。
二人はテーブルの上の物などそのままにして立ち上がりました。
もちろん幸一郎もいっしょに家を出ました。
「それでは、お元気で。」と婦人が言いました。
「これからきっといいことがありますよ。またどこかでお会いできるといいですね。」と男の人が言いました。
婦人と男の人を乗せたハイヤーが坂の下へ消えてしまうと幸一郎は一人その場に残されました。坂の上には木犀の香りだけが闇の中であわく漂っています。
背後を振り返るとほんのさっきまでいた赤い瓦屋根の建物は もう何年も住む人のなかった家のように突然古びて暗がりの中に沈んで見えました。
そのとき足元で何か声がしました。
「幸一郎さん、幸一郎さん。」
その声にふと我に帰ったように幸一郎は足元を見ました。
「お迎えに来ましたよ、幸一郎さん。」と言ったのは猫のミーコでした。
幸一郎はなんだかうれしくなって腰をかがめて言いました。
「ミーコ、わざわざ来てくれたんだ。ありがとう。」
「ハアイ、きちゃいましたよ。今夜は月のきれいな夜ですからね。」とミーコは言いました。
幸一郎はミーコを胸に抱いて坂道を下りて行きました。
二・三歩下ったところで「幸一郎さん、金木犀のにおいを手放して来ましたね。もうなにもにおいませんよ。」とミーコが言いました。
「ほんと。もうにおわないって。じゃあぼくの顔はどうなの。
もう悲しい目にはなってないのかな。」と幸一郎は聞きました。
「はい、それは自分でアパートに帰ってから確かめるといいですよ。でも自分でもわかるでしょう。」と
ミーコは言いました。
「ああ、確かめるまでもないかもしれないよ。なんだか胸がすっと軽くなったような気がするからね。」と幸一郎は言いました。
そして猫のミーコを胸に抱くと 坂道を下って行きました。
坂道を 香りと降りぬ 金木犀
さかみちを かおりとおりぬ きんもくせい