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2021-11-02

短編ファンタジー集|天ぷらしぐれ「川鯉がザブ」②

鯉の絵

 

ところが清水老人は「私はたぶん今日あたりいなくなるからね。そうしたらこのベンチは温郎、おまえが引き継げばいい。」と言うのです。
温郎は何のことだかわけがわからなくなりました。今日あたりいなくなるとはどういうことなのか。遠い所に旅行に行ってしばらく
帰ってこないということなのか、それともまさかと温郎は考えました。
それで「もしかしてこの人、変なこと考えてなんかいないよね。」と思いました。
するとやはりさかなの老人は温郎の気持ちがわかったらしく「ハハァ、このおじいさんもしかして変なこと考えていないかって
心配してるみたいだね。まあ確かに変なことかもしれないなぁ。でもだいじょうぶ、だれにも迷惑などかけはしないよ。少なくともおまえが創造していることとは全然違う。それどころかたいしたものをおまえに見せてあげられるかもしれないんだ。」と清水老人は意気込むようにそう言うと微笑しました。
それから「おまえはよくここで川をながめているけれどいつも何を見てるんだい。」と言いました。
「えっ、何をって。」
温郎はそう聞かれると返事に困りました。温郎の場合特に何を見たいというわけではないのです。ただぼんやりと川をナがめてもの思いに
ふけることができればそれでいいと思っているのです。
すると清水老人は「おまえは川の鯉がはねるのを見るのが好きじゃないのか。」と言いました。
「ああ、そうだ。」と温郎は思いました。川の鯉がはねるとなんだか胸がどきどきしてたまらなくなるのです。世界のどこかでそれもすぐ自分のそばで何かすばらしいことが起こったような気持ちになるのでした。
「まあ、確かに。」と温郎は答えました。
「ぼくは鯉が跳ねるのを見るととてもうれしくなります。たとえその前にどんなことがあってもその日一日がとても幸せな気持ちになるんです。」
「私もそうなんだ。おまえぐらいの歳からそうだった。」と清水老人は言いました。
そんな言い方をされてて温郎はまるで自分が老人の仲間入りしたような感じでちょっといやな気がしましたが黙って聞いていました。
「鯉というものがどうしてあんな風にはねるのかおまえは知っているかい。さかなだったらふなやどじょうのように水の中で静かに泳いでいればいいものを、なんだってわざわざ空中に飛び出してくるのか不思議だと思わないかね。」と清水老人は言いました。
「まあ、そうですね。」温郎は軽くうなずきました。正直言ってそんなことをこれまで一度も考えたことはありませんでした。鯉がはねるのは元気が余っているせいでたとえばリレーの選手が勢い余ってカーブをまがりそこねて白線から飛び出してくるようなものなんだろうぐらいにしか思ってはいませんでした。
「私はね。かって鯉が水中から飛び出して空中に出てくるのにどれくらいのエルギーが必要なのか計算してみたことがあるんだ。まあこう見えても私は数学の教師だったからね。いやあ、驚いたね。それがたいしたエネルギーなんだ。あれはエネルギーの爆弾みたいなものだよ。生きたエネルギーの爆弾だ。」と清水老人は言いました。
「はあ、エネルギーの爆弾ですか。」と温郎は少しおもしろくなって言いました。
「そうだよ。エネルギーの爆弾たよ。それであいつらいったい何をするんだと思う。」と清水老人はわざと声をひそめて言います。
「何をするんですか。」と つられて温郎が聞くと
「それはね。あいつらときたらエネルギーの磁場を破ってこの三次元空間の壁を切り裂いてしまうんだ。もちろん一瞬のことだけどね。それはすぐに元通りに回復してしまうのだけれど。でもまさにあいつらときたら生きたエネルギーの爆弾だよ。」と清水老人は心から感嘆したように言うのでした。
「えっ、三次元空間の壁ですか。空間に壁なんてあるんですか。」
「あるとも、空間というと人は空っぽの箱のようなものを想像するかもしれないが実際はゆがんだりちぢんだり、それも一つじゃなくてそこから蜂の巣みたいにいくつも連なりあっているものなんだ。ああそうそう。きみたちがよくみるSFのアニメにワープっていうのがあるだろう。短時間でとおくの星へ移動することをワープって呼んでるね。そもそもあのワープっていうのはこっちの空間の端と向こうの空間の端をつまんでそれをこうくっつけてやるわけだな。そうするとその接点からぽんと向こう側にぬけることができるんだね。」
「ほんとですか。ほんとにそんなことできるんですか。」
温郎は元教師が言う話にしてはいささかいかがわしい話のようにも感じましたが これはちょっとおもしろい話になってきたぞと思いました。じつを言うと温郎は数学や理科はあまり得意てばありませんでしたがこういう話を聞くのは前からきらいではなかったのです。
「ああ、ほんとうだ。そうやってこの三次元空間ってやつは隣り合った多次元空間と交流しながらエネルギーを補充しているんだよ。それをだね温郎君、びっくりしちゃいけないよ。全く驚いたことにそれをこの自然界の小さな生き物たちがになってるんだ。鯉だけじゃないぞ。うぐいすのさえずりだってそうだよ。あれは空間のゆがみを修正する作用があるんだ。でもなんといっても鯉は最高だ。あいつらときたらほんとに生きたエネルギーの爆弾なんだからね。ああそうそう。もし興味があるなら今度その計算式を持ってきてあげてもいいけどね。」
「いや、いいです。ぼくは数学が苦手なんで。」と温郎は寄せて来る小さな波を手で押し返すような心持であわてて答えました。
「そうか。それは残念だな。ほんとは数学ほどおもしろいものはないんだけどな。」と清水老人は言いました。それから少し黙ったまま川の方を見ました。
温郎も黙ったまま老人といっしょに河をながめました。
川の水は進むことを忘れたようにどんよりと漂いながら流れていました。
あたりもまどろんでさやさやという芒のそよぎの他にはヨシキリや河鵜の鳴き声もうぐいすのさえずりも一服しているかのようです。
となりがふと静かになったような気がして横目で見てみると清水老人はうっすらと目を閉じていました。眠ってしまったのかと思いましたが そのうちなんだか息をしていないような気がして心配になってきました。
もしものときはどうしたらいいんだろう、とりあえず救急車を呼ぶべきなんだろうか。
温郎がそんなことを考え始めたとき老人の口の端から涎が一筋たれたかと思うと ひくっと息がもれて清水老人は目を開けました。
「ああ、寝ちゃったよ。ごめんごめん。今瞑想して川と話をしようとしたんだけどね、そのまま寝ちゃったみたいだ。
きっと温郎がそばにいてくれるから安心しちゃったんだな」と清水老人は涎を手でぬぐいながら言いました。
温郎はそれを目をそらして見ないようにしていました。
すると清水老人は大きなあくびを一つしてから唐突に「ああ、やっぱり33.7度だな。」と言いました。
「はあ、それって鯉がはねる角度のことですか。」と温郎は突然清水老人の方を向いて言いました。全くの感でした。
言いながらわれながらよくわかったもんだと思いました。
清水老人が33.7度と言った時温郎にはこれはっとひらめくものがあったのです。
「おお、そうだよ。よくわかったね。たいしたものだ。」
清水老人はすっかり教師口調になって温郎をほめました。
「そうなんだよ。鯉がこの角度でとんだとき一番効果的にこの三次元空間のエネルギー磁場を切り裂いてくれるんだ。そのときにはね光の筋が一本空間の裂け目から差し込んでくるのが見える。多次元空間から差し込んでくる光だね。もちろんほんの一瞬のできごとだよ。あっという間に裂け目は閉じて光は見えなくなってしまう。でもこの光に捕まってね。多次元空間へするするっと上っていくことができるんだって言ったらおまえさんは信じるかい。もちろん信じないだろうね。このおじいさん、頭がおかしくなったって思うだろうね。そりゃあそうだ。信じろって言う方がどうかしてる。でも実際それを見ることができたらどうかな。」と清水老人は言いました。

(短編ファンタジー集|天ぷらしぐれ「川鯉がザブ」③に続く)


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